Grace Gospelというのは今主に西洋文化の元で大流行している「神の恵み」を強調して聖書を解釈しメッセージをしているキリスト教の宗教団体だ。これは「神の恵み」ばかり唄って聖書が伝えたい本当のメッセージを湾曲しているのでちょっと「ヤバい」と思っている。聖書の言葉はそれ以上でもそれ以下でもない、それに付け加える事は異端であり全く別物の宗教となる。
とにかくひたすら「あなたの努力は全く必要がない!神様の恵みによって、全ては与えられているし全ての必要は与えてくれる!」は?努力が必要がない?全ては神の恵みによるから信じればいいだけ?オイオイオイ。。。聖書の新訳における教会時代に出てくる重要人物たちは絶え間ない努力をしているし、迫害もされている。聖書の「恵み」だけをうまく切り抜いて「努力」を無視し、聖書の語る「全身全霊で神を愛せよ!」と言う言葉はどこにやった?
これでは「ご利益宗教」とほぼ同じではないか?神様から恵みを貰えるからこの神様が良い!とキリスト教を選ぶなら人生で悪い事が身に起こった時に「神からの恵みはどこにいった?」とすぐにキリスト教を離れる事だろう。それはご利益がもうなくなったからだ。しかし聖書はそんな「ご利益的」な事を強調して言ってない。
聖書は旧約も新訳も救い主であるイエス・キリストに焦点がある。十字架による罪の贖い。永久の命。そしてイエス・キリストを通らなければ誰も天の父と和解が出来ないとはっきり明言している。そして聖書の言葉の中に「行動を伴わない信仰は無きに等しい。」と明言している。つまり神の恵みだけを祈り、何もしない。。。これは聖書的ではないという事だ。
わたしの予想だが、聖書を自分で勉強していない様な人達が日曜日だけ教会に行って耳に優しい気持ちの良いGrace Gospelメッセージをきいて微笑みながら「うん、うん。」とうなづき、教会が終わった後は聖書の事などちゃんと勉強せずむしろ行動を伴わない何も変わらない罪の生活を無意識のうちに送る事を繰り返す。そしてお祈りをする時は「神様、恵みを受け取ります!あなたを信じます!」と祈る。。。。これはご利益宗教なのでは?と思わざるを得ない。
人は誰でも自分と親しい人達の様になっていく。それは無意識のうちに行動、考え方をシェアしているうちに似ていくのだ。これは既に科学的に証明されている。もし毎日イエス・キリストに焦点をおいて全身全霊で救い主を求めるなら、その人に神の霊である聖霊がその人のうちに宿りイエスつまり神の性質に似てくるというわけだ。
だからもしGrace Gospelを強調する教会に行けば、そこの牧師は甘い飴をポケットに入れて教会に来た人達に甘い飴を配る。人々は毎週日曜日にその甘い飴を貰いに行く。そう。。Grace Gospelは耳触りの良い子守唄というなの甘い飴を首からぶら下げた牧師に「甘い飴をもっと頂戴!」と貰いにいく子供達の様である。
わたしはこれが悪いと言っているのではない。焦点がずれているから「ヤバい」と思っているのだ。本質からずれている事をやると無駄な時間だけが流れて結局手元には何も無かったという話の様だと言っているのだ。
もっとわかりやすい例えで言うなら日本テレビのバカ番組を見続けて、見ている時は馬鹿笑いして気分が良くなるが見終わったら何も残らないのと似ている。一時的にこう言う場があっても良いと思うが、続けるのは何の成長にもならないし、生産的じゃない。